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巡礼供養碑(ムービーあり)
浜街道に峠はありませんが、それに代わる難所がありました。それは志原川、尾呂志川、です。当時は橋もなく、波の引き間を利用して河口の浅瀬を走り渡りましたが、時には波にのまれる人もありました。志原川尻には巡礼供養碑があります。「異邦信士」(文化九年)「水雲(寛)法」(延宝二年)「空月源智」(元和三年)の三基です。丹波とか日高とか遠方から来られて、犠牲になった方々です。
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池大明神
下市木三軒屋には壷の池大明神が祀られています。下北山村の池の峰神社の近くに大蛇が住み、住民や旅人を悩ませていました。神様は懲らしめてやろうと、下駄で踏みつけ三つに分けました。頭(奈良猿沢の池)と胴(池の峰明神池)と尾(下市木壷の池)です。その尾は壷の池の主となり、大うなぎとなりました。そのうなぎを取ると病になり、やがて亡くなり、村人はその後、うなぎを取らず、汚物を流さず、池大明神として祀りました。
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浜辺の水神塔
市木川の河口近くには水神塔があります。河口に積もった浜砂利のため海水が逆流し集落・田畑を水浸しにしました。こうした自然災害から守るため水神塔・三重塔が新旧五基建っています。うち一基は昭和59年に再建されたものです。
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市木の一里塚
市木に一里塚があります。正徳2年(1712年)熊野街道に一里塚が決められました。市木一里塚は旧街道を挟んで海側と山側にあり、ともに大小の松や雑木が茂っていました。現在の「史跡市木一里塚」という標石は昭和43年(1968年)山側の塚のあった所に建てられたものです。一里塚は旅人の休憩所であり、車馬賃算定の基準になった所でもあったと言われています。
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稚子塚(ムービーあり)
阿田和貫ノ木に稚子塚があります。正徳年間(1711年から1716年)にお姫様が流れ着き、庄屋翁了に救われ茶屋を開き、一生独身で過ごしました。臨終の際、お世話になった翁了にお礼を述べ、「私を七尾七里が一目で見える高い山の上に葬って欲しい。そして、何時までも村人の平和を祈りたい」と遺言をしました。お姫様を近くの飛波山(ひわやま)に葬り、稚子塚と呼び、その名が「乙姫」であったので、大正10年(1921年)祠を建て、乙姫大明神として祀りました。お参りをすれば、美人が生まれ、無病長寿が得られると言われています。
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雲揚艦遭難跡
阿田和の小松原で、明治9年(1876年)10月31日午後12時、雲揚艦が遭難しました。長州萩で乱が起こり、横須賀を軍艦浅間とともに出港しましたが、遠州御前崎で暴風雨となり蒸気機関が止まりました。そこで瀧野艦長は船だけで串本まで直行と決心しました。真夜中「あかりが見えます」とのことで方向を変えようとしましたが、横波をかぶり艦は動かなくなりました。艦長は全員上陸を命じましたが、泳げないもの11名をはじめ23名が溺死し、52名は勇敢な阿田和の若者の必死の活躍によって救助されました。殉難者は光明寺に葬られております。
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| ●詳しいコース紹介などは、「くまどこ」の「熊野古道」をご覧ください。 |